昭和50年08月15日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感に適うた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感に適うたのじゃ。神の気感に適わぬと身代もあり力もあるがまめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、又大切な者が死んで身代を残して子孫をきらして仕舞う。神のおかげを知らぬから互い違いになって來る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞ。」

 先ずは神の機感に適うた氏子にならせて頂こうと云う願いが大事です。神の機感に、いわゆる神の気心、神の云うならばお心に適う私にならせて下さいと云う事が私は願いの第一でなからねばならんと思うですね。神の機感に適う、言わば信心をさして貰う。天地の道理を聞かせて貰い、天地の御恩徳、天地の大恩を聞かせて貰う。本当に天地の御恩恵なからなければ、私共はこの地球上に生存する事すらも許されない。
 御恩恵受けなければならない。そこから神の大恩を感じられる様になり、そして神恩報謝の心が湧いて來る。その神恩報謝の心が湧いて來る。それでいわゆる神の機感に適うた私にならせて頂くと云う願いをいよいよ深く持たせて頂く。神様のお心を分かろうともせずに、只自分の思いとか自分の願い事だけを訴える事が信心ではない。云うならおかげを受けると云う事が信心ではない。
 神の気感に適い、適う生き方に段々ならせて頂くと云う事を、神の大恩を知り、天地の道理が分かり天地の道理に即応した行き方とは、どういう行き方なのか。大恩を分からせて貰うて、日々神恩報謝の心で過ごさせて頂き、その神恩報謝の心が、言わば形に現れて來る。これが御用である。そういう信心をです、願わせて頂くと云う事。そこで私達が思うて見ねばならん事はです。
 これ程天地の道理を聞かせて貰いよるが、果して道理に合うた、云うならば天地の心に適うた行き方、生活をさせて頂いとるかどうかと云う事を、先ず検討してみなければならない。同時に天地の御恩恵を聞かせて貰い、噛んで含める様に天地の大恩を説き明かして下さるが、果して天地の大恩に対する、云うならば神恩報謝の誠が捧げられておるか、生活の上にそれが現れておるかと、先ず思うてみる。
 そういう信心にならせて貰わねばいけません。神の大恩が分かれば無事達者で子孫も続き、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞと教えられるのですから、年勝り代勝りのおかげを受ける為には、いよいよ本気で天地の大恩が分からなければいけません。その天地の大恩が分からせて貰うてです、神のおかげを知らぬからと教えられる。互い違いになって來ると教えられる。神のおかげを受けておる事実をね。
 いわゆる神恩報謝の心ですが、段々深くなって行く。それが募って行くのが、信心をいよよ有難いものにして行く事の出来れる、まあ行き方だと思うのですけどお互いの信心がどういうところが大体焦点で信心を進めておるか、お話を聞いておるかと。昨日吉井の杉さんがお参りになって、毎日今午後から参って見えます。御承知の様に大家の奥さんですから、物やら金やらそれこそ不自由された事が無い方ですから、いわゆる恵まれた方です。只御主人を早く亡くされましたから。
 ああ云う大きなお家を、姑親である所のおばあちゃんと子供さん達がそれぞれおかげを受けていると云う事だけですから、まあ子供さん達の出来もまあ良いし、今は本当に恵まれた生活をしておられる訳です。それが昨日、先生迷いが起こって参りましたとこう云う。分からなくなりましたとこう云う。何が分からなくなったですかと、最近親先生が天地はそのまま真だと、天地の内容と云うもの、天地の心と云うものは真だと仰る。その真をまあ分類するとです。
 それこそ沢山な事になりましょうけれども、大ざっぱに天地の親神様の御心を分類すると信、真、誠だと言われる。真と云うのは、真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと仰る。御教えの信心の道とは真の道と書いてありますよね、それを真心の道と読ませてあります。その真です。次には言べんに成ると云う誠である。次には信心の信の字、所謂この三つの内容が天地金乃神様のお心だと。そこで小天地である天地の親神様に対する氏子の、私共である物も真にならせて貰わねばならない。
 そこに真と誠の交流があると云われるが、この頃何処が何処までが真であるか、自分がこうやってしておるのが真であるのか、分からなくなったとこう云うのです。それは完璧であるとかそれは、いよいよ真とはこれで良いと云う事はない。これで済んだとは思わない、教祖のお言葉の中にありますが、どれだけ真が出来ても、これで済んだとは思わないと云う心などは、まあ真でしょうね。
 問題は信心はその真を追求して行くと、どれ程の云うならば事をさせて頂いても足りない足りないと思う心が、云うならば誠でありましょう。だから真の追求をお互いはしておる訳である。お供えはせんでもおかげは頂けると此頃頂きました。お参りはせんでもおかげは頂かれると、み教えの中に御理解の中に頂きました。私共毎日日参させて頂いて、例えばこの様に僅か宛ではあるけれども、自分としては真としてお供えの一つもさせて頂いておるが、この方は非常に折り目正しい方です。
 ですから何と云うですかね例えば沢山株を持って居られます。この売り買いを必ず御神意を頂いてからなさいます。ですからそのおかげを受けられるとその都度都度にその事の、いわゆる真心と云うか、必ずお供えをなさる。所がそういうお供えをせんでもおかげを頂かれる。そうしげしげと参らんでもおかげを頂かれる。電話でも良いと云われる。また最近先生方のお話を頂いとると、愈々迷うて来ましたと言われるのです。
 具体的に迷いと云う事を、私はどう云う事で迷い、どう云う事で分からんと云われるか分からんけれども、そういう風に云われますから、問題はね、誰彼のね、例えば時計に合わせると言われるが、これは合楽のお広前に掛かっとる時計に合わせるならば間違いないよと申しました。云うならば私が言うておる事に、只出来んながらも添うて行こうと云う、その事が私は真だと思う。また真の信心だと思う。
 それは私がね、例えばおかげが受けられなくなったと、私が日々おかげが受けられなくなった、合楽でもうおかげが受けられなくなった。私自身がおかげを受けていないと云う事になったら、それは私の信心が狂うておる時だから、私の信心に合わせられなくなるか知れないけれど、私が或意味で一分一厘間違いのない働きを現して行っておるとするならば、その信心に合わせて行く。
 毎日お参りなさる自分の持っておるその時計を。ここの時計に合わせて行く事が、一番間違いがないよと色々お話を誰彼からでも熱心に、言わば求める聞かれる。その人が本当の事を教えて呉れれば良いのですけれど、その人の信心がもし狂うておるとするならば、なら狂うた時計に合わせて行くとするならばです、云うならば時間が進んだり、または遅れたりしておるとするならばです、サア汽車に乗らなければならないとする時に、それこそ一足違いで乗り損なう様な事になてはいけんじゃないですか。
 合楽が動いておる、合楽の云うならば車に乗せて貰う為には、合楽と何時も時計が足並みが揃うとかねばいけません。為には日々御理解を頂くことは大切ですね。誰誰さんのお話を聞いたらこうだった、誰誰さんはこう言わっしゃる。私共のごと信心の未熟な者は、どちらがほんなこつか分からなくなって來る。そういう時こそお取次頂かねばならんのじゃないでしょうかね。
 云うならば、ピシャッと私の持っている時計に合わせて行く行き方を私は進めて行くと云う事が、そのままが真じゃないかと云う風に申しました。だからそういう例えば、行き方をさせて頂くと云う事でもです、先ず信心、願いの根本と云うのが神の機感に適うと云う事。神の機感に適うた信心をさせて下さいと云う願いを持たねばいけません。お話を頂くと云うても、喜びが失せておる、おかげを頂きよらん、そういう人の話はこれは絶対聞いてはならんのですよ。
 どんなにその人が信心が詳しかと云うても、詳しかだけじゃ分からん。信心の喜びが心の中にいっぱいある、受けておられるおかげが間違いないおかげを、例えば細々ながらでも、おかげをおかげと知っての生活をしておられる様な方の話を聞くなら、間違いないけど、おかげは頂き御座らん、心に喜びがあろうとも思われない。只詳しい話が上手と云うだけの話では、これは迷いが起こるのは当り前。
 真の事が分からんのが当り前。それはお話の上手な、そうにや詳しくてお話の上手なそれこそもう、本当に噺家の様に話の上手な先生方もありますよ。けれども一つも助からんでしょう話を聞いて助かる道と云うても、話そのものが生きておらねば、歓びで満ちておらねば、実際頂いておるおかげをふんまえての人の話でなからねば人は助からない信心は先ず、自分が助かる為に信心をしておるとに、助からん話をしたんじゃいけません。ところが人間はおかげを頂かにゃならん。
 よか信心を頂かにゃならん。目先のことを言うちゃならんと、云いよるけれども、おかげの事を目の前に言われるともう迷い、毎日参らんでん、おかげは頂かれるとか、お供えはせんでもおかげは頂かれるとかと、例えば云う事を、ならお話をこれはここで、私がお話をする。先日からでもそうでした。お供えせんでもおかげは受けられる。毎日毎日参って来んでもおかげは受けられる。言づてだけでもお願いしますと云えばおかげは受けられる。けれどもそのおかげに迷う訳です。
 迷うというても他の事で迷う事ではない。おかげに迷う、人間のそれこそ凡情と云うか、もう哀れな事です。おかげを受けますともう、おかげで信心がぐらつく様になる。だから、問題はね。皆さんおかげは受けられねばならんけど、もうこの氏子は幾らやっても間違いはないと狂わない信心をね、皆さんが身に付けられない限り本当のおかげは受けられませんです。そこでそんなら信心とはどういう事かと、何時も神の機感に適う私にならせて下さいと云う様な願いを真にして居らなければいけません。
 すぐ分かる、自分の今の様な状態では神様の心には適わんのだ。道理に合わんのだ。神恩報謝の心は段々薄くなるばっかりだから、自分の心に止むに止まれない、お役に立ちたいお役に立ちたいの一念が募って來る信心、歓びが一年一年有難うなると仰るが、一年一年有難うなって行きよる。そういう信心をさせて頂いておるならば、まずはあなたは神の機感に適うた信心を続けておられるのだと云うわけです。
 そういう信心がです、とにかく信心とは神様の心に適う心の状態、またそういう行き方をさせて頂くんだと云うことを、先ずは一つ心の中に頂いておらねばいけん。不思議にお広前を遠ざかると、それが信心の抜け初めと仰る様に、決して忘れてはおらんけれども、やはりお広前を遠ざかるのは信心の抜け始め、有難くこれだけのおかげを頂いておるから、有難く思わなきゃならんのだけれども、有難く思えなくなって來る。神様のおかげがおぼろげになって來る。
 そこから云うならば、隙が出て來ると云うのじゃないですかね。神のおかげを知れば、又は神の大恩を知ればお互いが願って止まない、無事健康で子供の代よりも孫の代と云う様に身代も出来、一年勝りのおかげが受けられると仰るのですから、そういう一年勝り代勝りのおかげを頂ける様な信心を頂きたい。それには先ず願いの根本は、どうぞ神様あなたのお心に適う一日であります様にと云う願いを先ず立てなければいけません。その事を願わずに、どうぞああして下さい。
 こうして下さいと云う願いに終始しておったんでは、駄目です。そこでなら神の機感に適うた信心とは、どう云う行き方、在り方にさせて頂いたらよかろうか、そこに迷いが起こって來る。そこに真とはどう云う事か分からなくなって來る結果になるのです。もう二十六、七年も前の事だったでしょうか。文男先生がここで当時の椛目で修行している時分に、北野の共励会に行ってそこの共励会が済んだ後に、或人が真と真心と云われるが真と真心とはどういうところが違いますかと質問した人があった。
 なかなか難しい質問です。真とは、云うなら鉄砲の様なもんだと、鉄砲持つと云う事だと。真心とは、それを打ち放した時だと、神様にお知らせを頂いてそう云うたと云う話が残っとります。だから合楽でね、例えばこれが真だと聞いた時に、それは鉄砲頂いた様なもんです。それをそのまま、持っとるというただけでなくて、それを撃ち放した時に真心が飛び出るのです。だから思うておるだけではいけないと、神恩が分かっただけでなくて、報謝の心が出来た時に、初めて真、真心と云えるのです。
 だからそういう行き方をさせて頂いて、私はいよいよ神の機感に適うた、適う行き方を求めて行くならばです、それは信心の程度程度に於て違いますのですから。必ずしも誰の真似と云う事じゃないですけれども、神の心に適うと云う事を願って、いわゆる真、真心を頂きそれを報謝して行く。報謝の生活、そういう云うならば容易い行き方を身につけて行けば良いのですが、一足飛びに何か難しい風に信心を中々こねたり、回したりして分からなくなると云う事はおかしい。
 それでも矢張り、例えば昨日も久留米の佐田さんの奥さんが、二度目のお参りをなさっておられた。ある方から電話が掛かってきた。大変難儀な問題で、ここはどうしたものだろうと云うて電話が掛かって来た。そこで自分の心の中に、昨日頂いた光明皇后の話をしようかと思うたけれども、やれやれ待てと思うて、お参りをして来た。丁度お参りをしてここでお届をしている時に。その方から電話が掛かって来た。そこで私がその方の場合、大変重態な病人さんを抱えて居られる。
 最近ではもう、自分とこだけでなくて周囲にまで大変迷惑を及ぼす様になって行きよる。そこで主人がどうしても明日は入院させようと云う。自分方だけなら辛抱するけど、人にまで迷惑を掛ける様になっては、相済まぬから明日は病院に入院させようと云うけれども、御教えを頂くと、病院はいらん、入院はいらんと、例えば云われる様な気がする。そりゃもう、だから佐田さん、その電話受けられてのところはです、此処までおかげ頂いとるとじゃから、まあ一頑張り頑張んなさいと言いたかった訳なんです。
 だから光明皇后の話をしようと思うたけれども、やれやれ待て待て、ここは一つお取次頂いてと思うて、お取次しとられるところへ、本人から電話が掛かってきた。云うならば成行きを大事にして行かねばならないと云う事を何時も聞いておる。だから難儀な問題、成り行きそのものまで、やっぱり合掌して受けて行くのが本当だとしておる訳です。そこで私は、ここの大祭が十六日になったり、二十日になったり又十六日になったりしたお話を電話でさせて頂いた。
 周囲からそんな働きが起こって來る。云うなら御理解は、御神命に十六日と頂いておる御大祭日を変える様な事ではお徳は受けられないと云う話であった。だからと云うて親教会からそれを変えろと云われてもです、いいえ私は御神命だから変えないと云わずに二十日に変えろと云われれば二十日に変えたと云う事が、又次に十六日にと向こうの方からまた十六日に変えろと云うて来たんだと云うお話をさせて頂いた。それを聞いておかげを頂いたのは佐田の奥さんだった。
 いや本当に成行きを大事にすると云う事はそう云う事であったと云う事である。そこに私の息子の幹三郎の肉腫の時の手術の話も致しました。もうそうしなければおられない働きが、八重十文字に起こって来ておるのです。いえ信心しよるけん、医者でん何でん、掛からんてんなんてんな、絶対云うて良かろう筈がないけど、最高のおかげを頂く為に、成行きを大事にせろと云うのである。その成行きそのものがです、もう自分じゃない、周囲から、そんな働きが起こって来ておるのであるから。
 恐らく今日は、一家を挙げて病院に送って行かれるだろうと思います。ですから一切それを成行きなら成行きを大事にせんならんと云う事でも、行じておる内にです、分からなくなって來る事がありますから、佐田の奥さんにしてそうであるから、此処に来て違うておった時計を教えんで良かった。ここで正確な時計を教えて頂く事に依って、この人も電話を掛けて来た人もおかげ頂きゃ。
 自分自身もおかげ頂いたと云う事になるのです。だから分からん時が必ず出来て來るのです。杉さんの奥さんじゃないけれども、真がどう云う事か分からなくなって来たと、そういう時には誰彼尋ねたりするから、愈々迷うて來るのです。愈々の所はお取次を頂いて、親先生の持っとられる時計に合せて行く、行き方を身につけないととんでもない、狂うた時間を教えられたら、折角徳の車に乗せて頂けれる。
 云うなら時間に間に合わじゃった、ひと足違いで乗り損なうては愈々詰らんじゃないかと云う事になるのです。だからそういう信心をです、根本になるのは一番初めに仰る神の機感に適うた氏子が少ないと仰せられるが、神の機感に適うたその少ない方の信者に、お取り立て下さいと云う願いが、根本的になされて、今日私が申しました様なあんばいにです、真の追求であり、真心の追求と云う事にならなければならんと云う事であります。
   どうぞ。